小説

哀 蛾(23)

 「あららー、そんなに飲んでだいじょうぶ?」バーボンのボトルを抱え込むように飲んでいた私の背後から懐かしい声が顔をのぞかせた。

 「大丈夫ってのは昔は強くてたくましい男のことだったんだけどなあ・・・」

 「相変わらずなんだからぁー、先生。」屈託のない笑顔が、酔いの回った目にはまぶしすぎた。

  彼女は私が初めて赴任した田舎の高校の最初の卒業生のひとりだった。

 「元気そうじゃないか、ユッコ。」。

 子どもっぽい女生徒たちの中にあって、彼女は特に目立った存在だった。

 地元のスーパーチェーンのオーナーの一人娘ということもあり、することなすことが派手で目に付いた。

 背が高くスタイルも高校生離れしていた。

 当然のことながらいつも男子生徒の好奇な目に取り囲まれていた。

 「元気すぎて、太っちゃった。」みぞおちの辺りを手のひらで軽くなでながら、私の隣に丸い腰を下ろした。

 あれから十年。彼女も二十代後半になる。

 「私もそれ飲ませて?」大き目の氷を指でつまむとグラスの中に無造作に投げ入れ、濡れた指先を軽く口に含み、艶のある瞳を私に向けた。

 「そんな目をすると客が誤解するだろう?」私は視線を外してグラスにバーボンを注いだ。

 「これがし・ご・と・・・」氷の浮かぶグラスを鼻先で回しながらそう呟いた。

 琥珀色に波打つ液体の底に彼女は何を見ているのだろう。

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哀 蛾(22)

 突然、陽気な若者たちの笑い声がドアを軽快に押し開けた。

 「あれー、エッちゃんはー?」背の高い瘠せた若者の甘ったるい調子がBGMにからまっていた。

 「今日はお休みなの。昨夜ケンちゃんが飲ませすぎちゃったせいかもよ。」言葉が音楽の中に吸い込まれる前に、ママはカウンターの隅に視線を移した。

 不安げな表情がグラスの向こうに霞んで見えた。

 ある夜、しなやかな聡子の体の内にふっと硬い芯のようなものを感じるようになった。

 その違和感が皮膚の表面にゆるやかに広がってゆくにつれて、彼女の四肢が次第に冷めてゆくように感じ、私の心も急速に冷めていった。

 うっすらと血がにじむ私の背中や腕を見て、はにかむように頬を染めた聡子の表情が浮かぶ。

 その傷跡ももはやない。体の傷は消えたが、その想い出は私の心に深い穴を穿ったままだ。

 その漆黒の淵から逃れるように、夕闇に浮かび上がったネオンの森へと彷徨い出た。

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哀 蛾(21)

 木製の重いドアを開けると、体が軽快なBGMの渦に飲み込まれた。

 「あーら、久しぶりじゃない?」店の中には客の姿はなかった。

 「エッちゃん悪かったわねぇ。女の子が急に辞めちゃったものだから・・・無理言っちゃた。」ママはカウンターの隅にビールを運びながら心から申し訳なさそうにそう言った。

 「今日は休みだって知ってるわよねぇ、彼女?」

 「ええ。」気の無い返事をしてグラスをほした。Beer01

 「何かあったの?あなたたち。」探るような目を向けた。

 「最近妙にはしゃいじゃって・・・お酒は浴びるように飲むし・・・」化粧の底に押し隠した不安が言葉の間に浮かんでいた。

 「まずは一杯つきあってよ。」

 「そうね、飲もうかぁ。」ふっと浮かんだ不安を打ち消すように、ふたりはささやかな乾杯をしてグラスを傾けた。

 「好きになるのは簡単だけど、続けていくのは大変よね・・・だから、こういう店がいっぱいあるのかもね・・・」グラスが口元でぴたりと止まった。

 白い泡が彼女の希望のように紫煙の中に溶けて言った。

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哀 蛾(20)

 聡子は突然生け花教室を辞めてしまった。そして、再び酔客相手の仕事に戻って行った。

 夜の仕事に戻ると間もなく聡子は指輪を外した。Eng_01

 『洗い物のじゃまになるから』という理由だった。私はそれ以上を尋ねなかった。

 嫉妬の気持ちがなかったわけではない。聡子の気持ちが離れてゆくのが怖かったからでもなかった。

 そうした不安や期待が不透明に混ざり合った不安定さに耐えられなかっただけなのかもしれない。

 そんなことを尋ねてしまったことを後悔した。

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哀 蛾(19)

 部屋に戻っても聡子は水盤に囲まれたままでいた。灯りを点けると驚いたように首を回し、力なく立ち上がった。

 「ごめんなさい。すぐに片付けるから・・・」水盤のひとつをゆっくりと持ち上げると、私の脇をすり抜けて行った。

 彼女にかける言葉が見つからなかった。

 「式は挙げられないのね・・・」聡子は片付けの手を止めて呟くように言った。

 式は挙げなければならないと思っていた。親元からもうるさく言って来ていた。

 「そんなことはない。もう少し様子を見たらと思っているだけだよ。」

 「どうして・・・」体に貼りつくようなまなざしで私の本意を探していた。

 「君の側にも友達ができて・・・」『式場のテーブルが埋まるまで』とまでは言えなかった。

 「友達って?」

 「あの子たちのような・・・」

 「私の・・・?あの子たちが?」

 「違うのかい?」

 「あの子たちの先生はあなたよ!」

 「・・・・・」私は言葉を飲み込んだ。その言葉は彼女たちも結局私の側の人間だということを意味していた。

 「友達なんていらない・・・」聡子はあの事件以来友達が信じられなくなっているのかもしれないと思った。

 男の素行を知っていながら口にせず、彼女の居場所を男に告げていたかつての友人たちのことを思うと無理もないことかもしれない。

 しかもあの子たちは元は私の生徒なのだ。私のささやかな願いは脆くも崩れ去った。

 「私にはあなたが必要なの・・・」という言葉が重くのしかかった。

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哀 蛾(18)

 「ねえ先生、靖子結婚するって知ってた?」ゴールデンウイークが終わり周囲の桜が散ってしまった午後、生け花教室に来ていた教え子のひとりが、帰りがけに私に向かってそう言った。

 「嶋田靖子のことか?」Time02089

 「そう。あの靖子がよー」

 「良かったじゃないか。」

 「それが逆ナンパなのよ!」

 「逆ナンパ・・・?」

 「そうなのよー。もう、必至だったって。」

 「あのおとなしかった嶋田がか?」

 「ひと目見てこの人だって感じちゃったんだって・・・」

 「・・・・・」

 「ジューンブライドだって、もう、舞い上がっちゃって、毎日電話してくるのよー。

 いやになっちゃうー」

 後片付けをしていた聡子の手がピタッと止まった。

 息苦しさから逃れるために、私は彼女たちを送って外に出た。

 春の陽がゆっくりと暮れようとしていた。

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哀 蛾(17)

 早速、私は何人かの嘗ての教え子に電話をかけ生徒を集めた。

 そうして聡子の生け花教室が始まった。

 それはチャットルームのようなものだったが、彼女には明るさが、そして部屋には花の姿が戻った。

 そんな姿を見つめながら、改めて聡子の寂しさを思った。

 「どうだい、あの子たちは?」花の香りと若い熱気が篭る部屋から出てきた聡子にそう声をかけた。

 「いい子たちよねー」腕前を聞いたつもりだったが、聡子はそう答えた。

 「少しは進歩してるのかい?」居間のソファーから彼女の表情を伺った。

 「先生がいいもの・・・」聡子は笑いながらそう言った。

 「おしゃべりしか聞こえてこないよ。」私も笑っていた。

 「手だってちゃんと動いてるわよ。」ちょっとすねたような顔になった。

 が、そこには同じ年頃の子たちとおしゃべりができるという喜びが浮かんでいた。

 私はこんな時間が長く続くことを願っていた。

  こうして聡子を取り巻く人の輪ができ、その輪が次第に広がって行く時間を。

 今親族を集めて結婚式を挙げれば聡子に肩身の狭い寂しい思いをさせることになるだろう。

 ふたりだけの式を望む聡子の本意は多分そこにあるのだろう。

 こうした時間が続いて行けば、彼女の側のテーブルも埋まって行くに違いない。

 そうすれば、自分の中にごろんと残っている重荷も消えて行くような気がしていた。

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哀 蛾(16)

 結婚の話は宙に浮いたまま、雪解けを迎えることになった。

 聡子はスパーのバイトは続けていたが、家ではぼんやりとすることが多くなっていた。

 趣味にしていた生け花も投げ出したままで、『たまには花でも生けてみたら』と言ってみるのだが、『そうね』とあいまいに答えるばかりで、水盤に新しい花が生けられることは稀になった。Flower_3

 互いに結婚の話は避けるようになっていたので、ふたりの会話も途切れがちになっていた。

 「生け花でも教えてみたら?」ある日、私は息苦しさから逃れるためにそう提案してみた。

 ふたりの気持ちが離れてゆき、花の姿が消えてゆくことが耐えられなくなっていた。

 「そうね・・・」聡子は箸を運ぶ手を止めた。しばらく考えていたが、彼女は私の提案を受け入れた。

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哀 蛾(15)

 「ふたりだけであげられないかなぁ・・・?」洗い物の手を止めて突然そう言った。

 予期していなかった言葉に忘れかけていた棘の感覚が戻ってきた。

 「うーん、難しいな・・・一応親の面子もあるしね。」東京での浪人を許し、東京の私大への入学を許してくれた両親の顔が浮かんだ。

 「親のために結婚するわけ?」珍しく咎めるような口調になった。

 「そうじゃないさ。そうじゃないけど・・・」

 「そうじゃないけど、何なの?」彼女にしては語気が強かった。

 強い冬の風邪が窓の外で唸りをあげていた。

 「君にだって両親があるんだから分かるだろう?」私はちょっといらだって新聞から顔をあげた。

 聡子の細い肩が震えていた。水道から流れ落ちる水音が再び強くなった。

 その夜式場のパンフレットはすべてクローゼットの奥深くしまい込まれた。

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哀 蛾(14)

 年明けの三日に彼女を連れて帰省した。

 実家は年始の挨拶に集まった親戚で賑わっていて、私はひとりひとり彼女を紹介して回らなければならなかった。

 年の近いいとこもいて、初めのうちは楽しそうに見えた彼女も、時間がたつに連れて人の輪から逃れるように部屋の隅に身を寄せるようになった。

 細い肩を壁に持たせかけ、目に戸惑いを隠せないでいる姿を見る度に、彼女を連れてきたことを悔いていた。

 帰りの列車の中でも冷たい窓に貼りつくようにして闇の彼方を見つめていた。

 吐息で曇ったガラスに映る彼女の横顔に翳りの色が見えた。

 凍てつくような漆黒の闇と人工のまばゆい光の世界とを一枚のガラス板がくっきりと分け隔てていた。

 どちらがどちら側なのかはわからなかったが、ふたりの間には透明な障壁が見え隠れしていた。

Tetsugakuwins  「寒くない・・・?」透明な壁を気にしながら、膝の上に重ねた白い手に自分の手を伸ばした。

 ひんやりとした甲に手のひらを重ね、軽く力を込めると、互いの小指の先が触れた。

 力なくしおれた指先がかすかに震えていた。

 「うまくやっていけるかしら・・・わたし。」冬の闇を見つめたままそう呟いた。

 「年に一度の運動会みたいなものさ・・・」幼い頃は楽しみでもあった親戚一同の集まりも、今は煩わしく思うことが多くなっていた。

 「いろいろ聞かれたわ・・・でも、何にも答えられなかった。」放心したように虚空を見上げた瞳に涙が浮かんでいた。

 「嘘をつくことはないさ。黙っていればそのうち皆んな忘れるよ。」とぼけた調子で笑って見せた。無理に作った表情がほどけてゆく瞬間が写真のネガのように車窓に写し取られていた。列車が吹雪の中を大きく左へカーブすると、それは街の灯りの中へと吸い込まれて行った。

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哀 蛾(13)

 年の瀬に聡子は夜の仕事を辞め、私たちはいっしょに暮らし始めた。

 教師という職業柄ホステスと呼ばれる職業の女性といっしょに暮らすことが憚られた。

 聡子の親も教師ということもあり、その辺の窮屈さは理解してくれた。

 早速、スーパーのバイトを見つけてきて颯爽と出かけて行った。

 聡子には生け花の趣味があった。

 仕事帰りに腕いっぱいの花を抱えて来ては、部屋を花で満たしていった。

 「ねえ、ここなんかどうかなぁ?」カラフルなパンフレットの海の中からリゾートホテルに付属した純白のチャペル見つけ、そう呟いた。Baloon05

 彼女はどこからともなく結婚式場のパンフレットを山のようにかき集めていた。

 「六月に教会で・・・」というのが彼女のささやかなコンセプトだった。

 「そこはちょっと遠いんじゃないか・・・人に来てもらうのも大変だよ。」

 「ひとって・・・?」驚いたように黒い瞳をいっぱいに見開いて私を見上げていた。

 「友達とか、親戚とかさ。」私は読みかけの本をソファーに置いて立ち上がった。冷蔵庫から缶ビールを手に戻っても、彼女はチャペルの写真から動こうとはしなかった。

 チャペルの祭壇が涙で濡れていた。

 「ごめんなさい・・・食事のしたくするわね。」エプロンで目頭を押えながら立ち上がると、すっと背中を伸ばして見せた。その強がりとも見えるしぐさが哀しかった。家族から離れ、友人さえいない見知らぬ土地に暮らす女の哀しみが・・・   

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哀 蛾(12)

 その年のクリスマスにふたりでプレゼントを買いに出かけた。

 デパートの貴金属売り場で彼女はショーケースの上に並んだ安物の指輪の群を眺めていた。高級品の並んでいる下のケースには見向きもしないで・・・

 「これどうかしら?かわいいでしょう。」これまでに見せたことのない子どもっぽい笑みを浮かべて、私の方へふり返った。

 小さなリングを大事そうに指にはめ、白い手を私の前で開いて見せた。

 無邪気すぎるしぐさに戸惑っている私を見て、恥ずかしそうにうつむいてリングを右手に移した。

 その瞬間、棘のようなものが張り詰めていた感情に触れるのを感じた。

 それは違和感というにはあまりにも小さな感覚だった。

 Pht_174 人たちの熱気でむせかえるようなイタリアンレストランで食事をしている間に、その棘はしだいに成長していった。

 「さっきのこと気にしてる・・・?」急に無口になった私の様子を気遣うようにそう囁いた。

 「ちょっと左手にしてみたかっただけなんだから・・・結婚とかそういうの考えてたわけじゃないのよ。」

 ふっと『ジューンブライドっていい響きね』と呟いた時の彼女の黒い瞳が浮かんだ。

 レストランの白っぽい壁に夏の真っ青な海が広がり、突然体にからみついたひんやりとした彼女の腕と小刻みに震える唇の感触が甦った。

 冷たい湖水を見つめながら呟いた寂しげな声、殺風景な部屋にぽつんと置かれた鳥かご、石鹸の匂いがただようやわらかな布団にくるまれた滑らかな白い肌などが走馬灯のように浮かんでは消えた。

 「結婚・・・しようか・・・?」想い出の中に吸い込まれるようにそう言っていた。

 口に出してみて初めて違和感の正体がわかったような気がした。

 「ほんとに・・・?」困惑していた彼女の顔がパッと明るくなった。

 グラスを持つ手が震え、キャンドルの炎がワインの表面で揺れていた。自分の中で棘はますます大きくなっていった。

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哀 蛾(11)

 警察の介入で事なきを得たが、その街にはいずらくなって海を渡った。

 古い友人の紹介であのスナックのママの元に身を寄せ、エツ子という源氏名で働くことになった。

 家具らしい家具がなかったのはそのためだった。

 「初めてのお給料でインコを買ったの。寂しかったから・・・」

Inko01  「言葉も教えたんだけど・・・だめだったみたい。」そこまで話し終わると、聡子は指先で涙をぬぐい無邪気に笑って見せた。

 その笑い顔は店で見せる作り笑い以上に空虚だった。

 時折見せる陰りの訳がのみ込めたような気がした。

 私は身構えた姿勢をくずし、大きくひとつ深呼吸をした。

 その夜、ほのかに石鹸の匂いがする女の布団の中でふたりは激しく求めあった。

 聡子の体が私の理性をまるごと飲み込み、私の体が彼女の暗い過去を飲み込んだ。

 染み出す汗が潤滑油となりふたつの肌がやわらかく滑っていた。

 異質なふたつの影が淡い光の中で溶け合った。

 「うれしい・・・」と女は濡れた瞳を向けてつぶやいた。

 私は彼女の寂しさを受け入れた。少なくとも受け入れたつもりでいた。

 そうすることで自分の中の空白が埋められるような気さえしていた。

 これまでに苦労という苦労を味わったことのなかった私にとって、彼女の寂しさと哀しみはまるで麻薬のように作用した。

 彼女は苦しみをすべて汲み尽されてしまったようによく笑うようになった。

 そしてその笑顔に時折見え隠れしていた空虚さが消えた。

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哀 蛾(10)

 「毎晩のように浴室で耳をふさいでいるようになって・・・」不快な想いを吐き出すように大きくひとつ息を吐いた。涙がぽとりと手の甲に落ちた。

 「親から借りて払ったこともあったわ。別れることが条件だったけど・・・でも、きりがなかった・・・」ついに彼女はそのアパートを出た。

 「後で聞いた話なんだけど、そんなことが前にもあったって言うの。同僚の子がね、何度も注意しようと思ったらしんだけど、やきもちだと思われるのが嫌で言えなかったって・・・」

 スカートの上に置いた手に力がこもるのが分かった。

 「逃げても逃げても追いかけて来たわ。」さんざんその男のことを悪く言っていた同僚たちの口から彼女の居場所が漏れていたらしい。

 彼女は友達の部屋を転々とせざるを得なくなった。

 「優しくって、甘い言葉には弱いのよ、女って・・・」自戒とも憤りとも取れる口調だった。

 彼女たちは男の言葉に弱いのではない、男の姿に弱いのだと思った。

 やがて男は友人の部屋に酔って押しかけ、刃物を振り回すまでになっていた。

 「青い顔をして、手に持った包丁がブルブル振るえてた。わたしの上に馬乗りになって、大声で叫んでた。

 『死のう!なあ、聡子、いっしょに死んでくれ!』って何度も何度も・・・」聡子の声は震えていた。

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哀 蛾(9)

 「とってもオシャレなひとだった。会社を辞めてからも毎朝きちんとヒゲをそってコロンを付けて出かけてた・・・」ふたりは毎朝同じ時刻に家を出た。

 時には一緒に電車に乗ることもあったが、男はたいてい途中のパチンコ店の中に消えていった。

 「それでも、月に何度かは大きく勝つこともあって、機嫌のいい時もあったんだけど・・・負けた時は、たいてい夜中に疲れた顔で帰って来て、わたしを抱いた」

 彼女は避妊のために婦人科へ行きピルを服用するようになった。

 「子どもができたらどうしようって、その時になって初めて思ったの。バカよね・・・」聡子の目に涙が浮かび、静かに頬をつたった。

 そんな男の行く末は知れていた。

 すぐに借金がかさみ取り立てが厳しくなっていった。

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哀 蛾(8)

 聡子は盛岡の高校を卒業し、仙台の化粧品会社でカウンセラーをしていた。

 二十歳になった頃、同じ会社のセールスと親しくなった。

 渋い感じのする三十男だったらしい。

 「やさしかったのよ、はじめは・・・よく待ち合わせをしていっしょに映画を見たわ。何を見たかは思い出せないけど・・・」聡子は小さく首を振った。

 それは思い出せないというより、思い出したくないというふうに見えた。

 ハリソン・フォードの精悍な横顔が浮かんだ。Hrison_ford02

 「雨の日にずぶ濡れになって来て、一晩だけ泊めてくれって・・・それからずっと・・・」こんな形でふたりの同棲が始まった。

 夢のような日々は長くは続かなかった。

 やがて男は麻雀やパチンコに明け暮れ働かなくなっていったという。

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哀 蛾(7)

 「無理いってママに借りてもらったの・・・」鳥かごの前に膝を折り、ほっそりとした背をまるめ、指先を鳥のくちばしへ伸ばしながらそう呟いた。

 聞きたいことはたくさんあった。

 が、言葉がまったく出てこなかった。

 私は立ち尽くしたまま、聡子を俯瞰し、彼女の想いをすべて飲み込んだ。

 長い沈黙の後、聡子はゆくりと立ち上がり灯りをつけた。

 かすかに鳥の羽音がした。

Ms300naka  「逃げて来たの・・・」ふらつく足取りで窓辺に向かいカーテンを閉めながらそう呟いた。

 『逃げて来たの・・・』と始まる話は衝撃的だった。

 再び鳥かごの前で膝を折り、化粧をしていない蒼白い顔を俯けた。

 奥底に封印してしまった記憶の糸をたどるというよりも、新しい記憶をつむぎ出すように聡子はゆっくりと話し始めた。

 私の中には躊躇う気持ちもあった。引き返せなくなるという不安もあった。

 しかし、好きな人のことは全て知っておきたいという若い好奇心が全てを飲み込んでしまった。

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哀 蛾(6)

 秋も深まった頃、聡子は風邪を引いて数日店を休んだ。

 「具合はどう?」

 「お医者さんはただの風邪だって・・・」

 「風邪は万病の素っていうから・・・」

 「だいじょうぶだから、本当に心配しないで」

Kouyou02  「明日にでも見舞いに行くよ」

 「ダメ!来ないで・・・病気で寝ているところなんか見られたくない・・・」電話の向こうで苦しそうな声がそう繰り返していた。

 何度かの押し問答の末、私は彼女の制止を振り切って見舞いに行った。

 お見舞い用の果物かごを両手に抱えた私の目に真っ先に飛び込んできたのは、部屋の真ん中にぽつんと置かれた鳥かごだった。

 薄暗い夜気の底で、ふたつの影が寄り添っていた。

 ほとんど家具らしいものもない殺風景な部屋だった。

 私を無理に引き止めようとした聡子の気持ちが痛いほどよくわかった。

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哀 蛾(5)

 「自殺したひとがたくさん眠っているのね・・・」湖にドライブにも出かけた時、鮮やかな紅葉を映す湖面を見つめながら寂しそうに呟いた。

 「水中に埋没した木々に入水した遺体がひっかり浮かび上がらないって聞いたことがある。」Shikotsuko01

 「死ぬのならそういうのがいいわ・・・死んだ姿なんかひとに見られたくないもの。」ささやくような聡子の声は吹き過ぎる冷たい風にかき消された。

 ふとした瞬間に遠くを見つめているようになる聡子の目に不安を覚えることもあった。

 が、それもほんの一瞬のことで、胸のうちで波打つ血潮の熱さがすぐにそれを絡め取ってしまった。

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哀 蛾(4)

 仕事に疲れ、カウンターの隅に腰を下ろすと、私の前にはいつも聡子がいた。

 ともすると無口になりがちな私を咎めることなく、ただ微笑んでくれるだけの彼女の存在がありがたかった。

 私たちは週末毎に映画を見、食事をし、少しばかり酒を飲んだ。

 一年目の夏は夢のように過ぎていった。

 「ハリソン・フォードって素敵よねー」映画の帰り道、聡子は星空を見つめながらそう呟いた。

 それは今見終わった映画の感想というより、何かを懐かしんでいるように聞こえた。

Time_02143  私は聡子の視線の先に目を向けた。

 澄みきった秋の夜空に北斗七星がくっきりと見えた。

 今彼女は何を思っているのだろうか?

 「少し歩こう。」私は聡子の肩に腕を回すと歩き始めた。

 「特別な想い出でもあるの?」私は目を合わさずにそう尋ねた。

 「何に?」聡子はふっと足を止め私を見上げた。

 「そんな目をしてたから・・・」

 「そんな目って?」

 「懐かしそうな目をしてたから・・・」

 「・・・・・」聡子は何も言わず私の胸に顔を埋めた。

 秋風が彼女の髪の間を吹き抜けて行った。

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哀 蛾(3)

100  私たちは真夏の陽射しを全身に浴び、遊泳禁止区域の外までのんびりと泳いで行った。

 浜辺がしだいに遠ざかり、いっしょに泳ぎ始めた仲間たちの姿もまばらになった。

 やがて海水浴場の全景がパノラマのように見え始めた時、私は突然ターンして、いっきに浜辺へと引き返した。

 戯れではなかった。私は何かから逃れるように夢中で泳いでいた。

 「ねえ、まって、まってよー」大きく見開かれたその目は、驚きと不安に満ちていた。

 彼女は赤いブイの外側にぽつんと取り残され、細い腕で懸命に水をかいていた。

 あわてて戻った私の肩に抱きついて彼女は泣いた。

 幾すじもの涙が青い水面に流れた。

 さざなみのように震える唇に唇を重ねた。

 そして彼女の寂しさを汲み取った。

 砂浜はまだはるか遠くに見えていた。

 静かな寝息がTシャツの肩をうっすらと湿らせ、やわらかな髪が時折私の耳をくすぐっていた。

 夏の陽は大きく西に傾き、ゆっくりと流れていく建物をオレンジ色に染めていた。

 短い夏の一日が終ろうとしていた。

 「さとこっていうの・・・」私の肩に身を寄せたままそう小さく呟いた。

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哀 蛾(2)

 「ジューンブライドっていい響きねぇ。」女の瞳の奥にほのかな酔いがのぞいていた。

 「六月の花嫁ってほうがよかないか?言葉の響きとしてはさぁ・・・」

 そんな会話がふっと浮かんだ。

 それが彼女と交わした初めての会話だった。

 それは客が一ダースも入れば窮屈に感じるほの暗いスナックでのことだった。

 どうしてそんな話題になったのかは思い出せないが、ふたつの異なった語感が妙に気に入っていたことだけははっきりと覚えている。

 そして季節が六月だったことも・・・Kiss04

 「わたし教養ないから横文字にあこがれがあるみたい。」

 「あこがれかぁ・・・」私はじっと虚空をみつめている女の表情にふと寂しさを見つけた。

 彼女はそんな私の視線から逃れるように席を立った。

 「わたしもビールいただくわね。」とカウンター越しにママにウインクをして見せた。

 紫煙に映るなだらかな肩から細い腰にかけてのやわらかな線がきれいだった。

 「そんな目して、エッちゃん口説かないでよ。」ママの陽気な目が私をにらんでいた。

 そう言われて、彼女は驚いたようにふり向いた。が、その瞳に不安の色はなかった。

 二時間ほどたわいのない話をして、その夜は店を出た。

 アカシヤの香りが澄んだ夜空を包み込み、星が爽やかにまたたいていた。

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哀 蛾(1)

 澄みわたる五月の空に、芽吹きはじめた草木の香りがやわらかな風に舞い、閉ざされた季節から解き放れたものたちの笑顔が春の陽にまぶしい。

 私は色のくすんだ冬着のまま、陽だまりの中に立ち尽していた。

 凍てつく風雪の中で、時間が長い長いトンネルのように続く北国では、誰もが春の訪れを願っているというのに・・・Tetsugakuwins

 道行くものたちの色が淡くなっていっても、私はたぶん冬着のままだろう。

 気が遠くなるほど長かった季節はすでに去ったはずなのに・・・

 華やかなキャンバスからこぼれおちそうになっている色彩さえ、半透明に凍りついた窓ごしに眺めている背中を、薫風が哀れむように吹き過ぎる。

 哀しみをおびた女の視線が私の意識の奥底にまつわりついてくる。

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