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2008年5月

哀 蛾(12)

 その年のクリスマスにふたりでプレゼントを買いに出かけた。

 デパートの貴金属売り場で彼女はショーケースの上に並んだ安物の指輪の群を眺めていた。高級品の並んでいる下のケースには見向きもしないで・・・

 「これどうかしら?かわいいでしょう。」これまでに見せたことのない子どもっぽい笑みを浮かべて、私の方へふり返った。

 小さなリングを大事そうに指にはめ、白い手を私の前で開いて見せた。

 無邪気すぎるしぐさに戸惑っている私を見て、恥ずかしそうにうつむいてリングを右手に移した。

 その瞬間、棘のようなものが張り詰めていた感情に触れるのを感じた。

 それは違和感というにはあまりにも小さな感覚だった。

 Pht_174 人たちの熱気でむせかえるようなイタリアンレストランで食事をしている間に、その棘はしだいに成長していった。

 「さっきのこと気にしてる・・・?」急に無口になった私の様子を気遣うようにそう囁いた。

 「ちょっと左手にしてみたかっただけなんだから・・・結婚とかそういうの考えてたわけじゃないのよ。」

 ふっと『ジューンブライドっていい響きね』と呟いた時の彼女の黒い瞳が浮かんだ。

 レストランの白っぽい壁に夏の真っ青な海が広がり、突然体にからみついたひんやりとした彼女の腕と小刻みに震える唇の感触が甦った。

 冷たい湖水を見つめながら呟いた寂しげな声、殺風景な部屋にぽつんと置かれた鳥かご、石鹸の匂いがただようやわらかな布団にくるまれた滑らかな白い肌などが走馬灯のように浮かんでは消えた。

 「結婚・・・しようか・・・?」想い出の中に吸い込まれるようにそう言っていた。

 口に出してみて初めて違和感の正体がわかったような気がした。

 「ほんとに・・・?」困惑していた彼女の顔がパッと明るくなった。

 グラスを持つ手が震え、キャンドルの炎がワインの表面で揺れていた。自分の中で棘はますます大きくなっていった。

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哀 蛾(11)

 警察の介入で事なきを得たが、その街にはいずらくなって海を渡った。

 古い友人の紹介であのスナックのママの元に身を寄せ、エツ子という源氏名で働くことになった。

 家具らしい家具がなかったのはそのためだった。

 「初めてのお給料でインコを買ったの。寂しかったから・・・」

Inko01  「言葉も教えたんだけど・・・だめだったみたい。」そこまで話し終わると、聡子は指先で涙をぬぐい無邪気に笑って見せた。

 その笑い顔は店で見せる作り笑い以上に空虚だった。

 時折見せる陰りの訳がのみ込めたような気がした。

 私は身構えた姿勢をくずし、大きくひとつ深呼吸をした。

 その夜、ほのかに石鹸の匂いがする女の布団の中でふたりは激しく求めあった。

 聡子の体が私の理性をまるごと飲み込み、私の体が彼女の暗い過去を飲み込んだ。

 染み出す汗が潤滑油となりふたつの肌がやわらかく滑っていた。

 異質なふたつの影が淡い光の中で溶け合った。

 「うれしい・・・」と女は濡れた瞳を向けてつぶやいた。

 私は彼女の寂しさを受け入れた。少なくとも受け入れたつもりでいた。

 そうすることで自分の中の空白が埋められるような気さえしていた。

 これまでに苦労という苦労を味わったことのなかった私にとって、彼女の寂しさと哀しみはまるで麻薬のように作用した。

 彼女は苦しみをすべて汲み尽されてしまったようによく笑うようになった。

 そしてその笑顔に時折見え隠れしていた空虚さが消えた。

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哀 蛾(10)

 「毎晩のように浴室で耳をふさいでいるようになって・・・」不快な想いを吐き出すように大きくひとつ息を吐いた。涙がぽとりと手の甲に落ちた。

 「親から借りて払ったこともあったわ。別れることが条件だったけど・・・でも、きりがなかった・・・」ついに彼女はそのアパートを出た。

 「後で聞いた話なんだけど、そんなことが前にもあったって言うの。同僚の子がね、何度も注意しようと思ったらしんだけど、やきもちだと思われるのが嫌で言えなかったって・・・」

 スカートの上に置いた手に力がこもるのが分かった。

 「逃げても逃げても追いかけて来たわ。」さんざんその男のことを悪く言っていた同僚たちの口から彼女の居場所が漏れていたらしい。

 彼女は友達の部屋を転々とせざるを得なくなった。

 「優しくって、甘い言葉には弱いのよ、女って・・・」自戒とも憤りとも取れる口調だった。

 彼女たちは男の言葉に弱いのではない、男の姿に弱いのだと思った。

 やがて男は友人の部屋に酔って押しかけ、刃物を振り回すまでになっていた。

 「青い顔をして、手に持った包丁がブルブル振るえてた。わたしの上に馬乗りになって、大声で叫んでた。

 『死のう!なあ、聡子、いっしょに死んでくれ!』って何度も何度も・・・」聡子の声は震えていた。

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哀 蛾(9)

 「とってもオシャレなひとだった。会社を辞めてからも毎朝きちんとヒゲをそってコロンを付けて出かけてた・・・」ふたりは毎朝同じ時刻に家を出た。

 時には一緒に電車に乗ることもあったが、男はたいてい途中のパチンコ店の中に消えていった。

 「それでも、月に何度かは大きく勝つこともあって、機嫌のいい時もあったんだけど・・・負けた時は、たいてい夜中に疲れた顔で帰って来て、わたしを抱いた」

 彼女は避妊のために婦人科へ行きピルを服用するようになった。

 「子どもができたらどうしようって、その時になって初めて思ったの。バカよね・・・」聡子の目に涙が浮かび、静かに頬をつたった。

 そんな男の行く末は知れていた。

 すぐに借金がかさみ取り立てが厳しくなっていった。

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哀 蛾(8)

 聡子は盛岡の高校を卒業し、仙台の化粧品会社でカウンセラーをしていた。

 二十歳になった頃、同じ会社のセールスと親しくなった。

 渋い感じのする三十男だったらしい。

 「やさしかったのよ、はじめは・・・よく待ち合わせをしていっしょに映画を見たわ。何を見たかは思い出せないけど・・・」聡子は小さく首を振った。

 それは思い出せないというより、思い出したくないというふうに見えた。

 ハリソン・フォードの精悍な横顔が浮かんだ。Hrison_ford02

 「雨の日にずぶ濡れになって来て、一晩だけ泊めてくれって・・・それからずっと・・・」こんな形でふたりの同棲が始まった。

 夢のような日々は長くは続かなかった。

 やがて男は麻雀やパチンコに明け暮れ働かなくなっていったという。

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哀 蛾(7)

 「無理いってママに借りてもらったの・・・」鳥かごの前に膝を折り、ほっそりとした背をまるめ、指先を鳥のくちばしへ伸ばしながらそう呟いた。

 聞きたいことはたくさんあった。

 が、言葉がまったく出てこなかった。

 私は立ち尽くしたまま、聡子を俯瞰し、彼女の想いをすべて飲み込んだ。

 長い沈黙の後、聡子はゆくりと立ち上がり灯りをつけた。

 かすかに鳥の羽音がした。

Ms300naka  「逃げて来たの・・・」ふらつく足取りで窓辺に向かいカーテンを閉めながらそう呟いた。

 『逃げて来たの・・・』と始まる話は衝撃的だった。

 再び鳥かごの前で膝を折り、化粧をしていない蒼白い顔を俯けた。

 奥底に封印してしまった記憶の糸をたどるというよりも、新しい記憶をつむぎ出すように聡子はゆっくりと話し始めた。

 私の中には躊躇う気持ちもあった。引き返せなくなるという不安もあった。

 しかし、好きな人のことは全て知っておきたいという若い好奇心が全てを飲み込んでしまった。

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哀 蛾(6)

 秋も深まった頃、聡子は風邪を引いて数日店を休んだ。

 「具合はどう?」

 「お医者さんはただの風邪だって・・・」

 「風邪は万病の素っていうから・・・」

 「だいじょうぶだから、本当に心配しないで」

Kouyou02  「明日にでも見舞いに行くよ」

 「ダメ!来ないで・・・病気で寝ているところなんか見られたくない・・・」電話の向こうで苦しそうな声がそう繰り返していた。

 何度かの押し問答の末、私は彼女の制止を振り切って見舞いに行った。

 お見舞い用の果物かごを両手に抱えた私の目に真っ先に飛び込んできたのは、部屋の真ん中にぽつんと置かれた鳥かごだった。

 薄暗い夜気の底で、ふたつの影が寄り添っていた。

 ほとんど家具らしいものもない殺風景な部屋だった。

 私を無理に引き止めようとした聡子の気持ちが痛いほどよくわかった。

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哀 蛾(5)

 「自殺したひとがたくさん眠っているのね・・・」湖にドライブにも出かけた時、鮮やかな紅葉を映す湖面を見つめながら寂しそうに呟いた。

 「水中に埋没した木々に入水した遺体がひっかり浮かび上がらないって聞いたことがある。」Shikotsuko01

 「死ぬのならそういうのがいいわ・・・死んだ姿なんかひとに見られたくないもの。」ささやくような聡子の声は吹き過ぎる冷たい風にかき消された。

 ふとした瞬間に遠くを見つめているようになる聡子の目に不安を覚えることもあった。

 が、それもほんの一瞬のことで、胸のうちで波打つ血潮の熱さがすぐにそれを絡め取ってしまった。

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哀 蛾(4)

 仕事に疲れ、カウンターの隅に腰を下ろすと、私の前にはいつも聡子がいた。

 ともすると無口になりがちな私を咎めることなく、ただ微笑んでくれるだけの彼女の存在がありがたかった。

 私たちは週末毎に映画を見、食事をし、少しばかり酒を飲んだ。

 一年目の夏は夢のように過ぎていった。

 「ハリソン・フォードって素敵よねー」映画の帰り道、聡子は星空を見つめながらそう呟いた。

 それは今見終わった映画の感想というより、何かを懐かしんでいるように聞こえた。

Time_02143  私は聡子の視線の先に目を向けた。

 澄みきった秋の夜空に北斗七星がくっきりと見えた。

 今彼女は何を思っているのだろうか?

 「少し歩こう。」私は聡子の肩に腕を回すと歩き始めた。

 「特別な想い出でもあるの?」私は目を合わさずにそう尋ねた。

 「何に?」聡子はふっと足を止め私を見上げた。

 「そんな目をしてたから・・・」

 「そんな目って?」

 「懐かしそうな目をしてたから・・・」

 「・・・・・」聡子は何も言わず私の胸に顔を埋めた。

 秋風が彼女の髪の間を吹き抜けて行った。

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哀 蛾(3)

100  私たちは真夏の陽射しを全身に浴び、遊泳禁止区域の外までのんびりと泳いで行った。

 浜辺がしだいに遠ざかり、いっしょに泳ぎ始めた仲間たちの姿もまばらになった。

 やがて海水浴場の全景がパノラマのように見え始めた時、私は突然ターンして、いっきに浜辺へと引き返した。

 戯れではなかった。私は何かから逃れるように夢中で泳いでいた。

 「ねえ、まって、まってよー」大きく見開かれたその目は、驚きと不安に満ちていた。

 彼女は赤いブイの外側にぽつんと取り残され、細い腕で懸命に水をかいていた。

 あわてて戻った私の肩に抱きついて彼女は泣いた。

 幾すじもの涙が青い水面に流れた。

 さざなみのように震える唇に唇を重ねた。

 そして彼女の寂しさを汲み取った。

 砂浜はまだはるか遠くに見えていた。

 静かな寝息がTシャツの肩をうっすらと湿らせ、やわらかな髪が時折私の耳をくすぐっていた。

 夏の陽は大きく西に傾き、ゆっくりと流れていく建物をオレンジ色に染めていた。

 短い夏の一日が終ろうとしていた。

 「さとこっていうの・・・」私の肩に身を寄せたままそう小さく呟いた。

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