哀 蛾(9)

 「とってもオシャレなひとだった。会社を辞めてからも毎朝きちんとヒゲをそってコロンを付けて出かけてた・・・」ふたりは毎朝同じ時刻に家を出た。

 時には一緒に電車に乗ることもあったが、男はたいてい途中のパチンコ店の中に消えていった。

 「それでも、月に何度かは大きく勝つこともあって、機嫌のいい時もあったんだけど・・・負けた時は、たいてい夜中に疲れた顔で帰って来て、わたしを抱いた」

 彼女は避妊のために婦人科へ行きピルを服用するようになった。

 「子どもができたらどうしようって、その時になって初めて思ったの。バカよね・・・」聡子の目に涙が浮かび、静かに頬をつたった。

 そんな男の行く末は知れていた。

 すぐに借金がかさみ取り立てが厳しくなっていった。

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哀 蛾(8)

 聡子は盛岡の高校を卒業し、仙台の化粧品会社でカウンセラーをしていた。

 二十歳になった頃、同じ会社のセールスと親しくなった。

 渋い感じのする三十男だったらしい。

 「やさしかったのよ、はじめは・・・よく待ち合わせをしていっしょに映画を見たわ。何を見たかは思い出せないけど・・・」聡子は小さく首を振った。

 それは思い出せないというより、思い出したくないというふうに見えた。

 ハリソン・フォードの精悍な横顔が浮かんだ。Hrison_ford02

 「雨の日にずぶ濡れになって来て、一晩だけ泊めてくれって・・・それからずっと・・・」こんな形でふたりの同棲が始まった。

 夢のような日々は長くは続かなかった。

 やがて男は麻雀やパチンコに明け暮れ働かなくなっていったという。

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哀 蛾(7)

 「無理いってママに借りてもらったの・・・」鳥かごの前に膝を折り、ほっそりとした背をまるめ、指先を鳥のくちばしへ伸ばしながらそう呟いた。

 聞きたいことはたくさんあった。

 が、言葉がまったく出てこなかった。

 私は立ち尽くしたまま、聡子を俯瞰し、彼女の想いをすべて飲み込んだ。

 長い沈黙の後、聡子はゆくりと立ち上がり灯りをつけた。

 かすかに鳥の羽音がした。Bunchou01

 「逃げて来たの・・・」ふらつく足取りで窓辺に向かいカーテンを閉めながらそう呟いた。

 『逃げて来たの・・・』と始まる話は衝撃的だった。

 再び鳥かごの前で膝を折り、化粧をしていない蒼白い顔を俯けた。

 奥底に封印してしまった記憶の糸をたどるというよりも、新しい記憶をつむぎ出すように聡子はゆっくりと話し始めた。

 私の中には躊躇う気持ちもあった。引き返せなくなるという不安もあった。

 しかし、好きな人のことは全て知っておきたいという若い好奇心が全てを飲み込んでしまった。

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哀 蛾(6)

 秋も深まった頃、聡子は風邪を引いて数日店を休んだ。

 「具合はどう?」

 「お医者さんはただの風邪だって・・・」

 「風邪は万病の素っていうから・・・」

 「だいじょうぶだから、本当に心配しないで」

Kouyou02  「明日にでも見舞いに行くよ」

 「ダメ!来ないで・・・病気で寝ているところなんか見られたくない・・・」電話の向こうで苦しそうな声がそう繰り返していた。

 何度かの押し問答の末、私は彼女の制止を振り切って見舞いに行った。

 お見舞い用の果物かごを両手に抱えた私の目に真っ先に飛び込んできたのは、部屋の真ん中にぽつんと置かれた鳥かごだった。

 薄暗い夜気の底で、ふたつの影が寄り添っていた。

 ほとんど家具らしいものもない殺風景な部屋だった。

 私を無理に引き止めようとした聡子の気持ちが痛いほどよくわかった。

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哀 蛾(5)

 「自殺したひとがたくさん眠っているのね・・・」湖にドライブにも出かけた時、鮮やかな紅葉を映す湖面を見つめながら寂しそうに呟いた。

 「水中に埋没した木々に入水した遺体がひっかり浮かび上がらないって聞いたことがある。」Shikotsuko01

 「死ぬのならそういうのがいいわ・・・死んだ姿なんかひとに見られたくないもの。」ささやくような聡子の声は吹き過ぎる冷たい風にかき消された。

 ふとした瞬間に遠くを見つめているようになる聡子の目に不安を覚えることもあった。

 が、それもほんの一瞬のことで、胸のうちで波打つ血潮の熱さがすぐにそれを絡め取ってしまった。

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哀 蛾(4)

 仕事に疲れ、カウンターの隅に腰を下ろすと、私の前にはいつも聡子がいた。

 ともすると無口になりがちな私を咎めることなく、ただ微笑んでくれるだけの彼女の存在がありがたかった。

 私たちは週末毎に映画を見、食事をし、少しばかり酒を飲んだ。

 一年目の夏は夢のように過ぎていった。

 「ハリソン・フォードって素敵よねー」映画の帰り道、聡子は星空を見つめながらそう呟いた。

 それは今見終わった映画の感想というより、何かを懐かしんでいるように聞こえた。

Time_02143  私は聡子の視線の先に目を向けた。

 澄みきった秋の夜空に北斗七星がくっきりと見えた。

 今彼女は何を思っているのだろうか?

 「少し歩こう。」私は聡子の肩に腕を回すと歩き始めた。

 「特別な想い出でもあるの?」私は目を合わさずにそう尋ねた。

 「何に?」聡子はふっと足を止め私を見上げた。

 「そんな目をしてたから・・・」

 「そんな目って?」

 「懐かしそうな目をしてたから・・・」

 「・・・・・」聡子は何も言わず私の胸に顔を埋めた。

 秋風が彼女の髪の間を吹き抜けて行った。

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哀 蛾(3)

100  私たちは真夏の陽射しを全身に浴び、遊泳禁止区域の外までのんびりと泳いで行った。

 浜辺がしだいに遠ざかり、いっしょに泳ぎ始めた仲間たちの姿もまばらになった。

 やがて海水浴場の全景がパノラマのように見え始めた時、私は突然ターンして、いっきに浜辺へと引き返した。

 戯れではなかった。私は何かから逃れるように夢中で泳いでいた。

 「ねえ、まって、まってよー」大きく見開かれたその目は、驚きと不安に満ちていた。

 彼女は赤いブイの外側にぽつんと取り残され、細い腕で懸命に水をかいていた。

 あわてて戻った私の肩に抱きついて彼女は泣いた。

 幾すじもの涙が青い水面に流れた。

 さざなみのように震える唇に唇を重ねた。

 そして彼女の寂しさを汲み取った。

 砂浜はまだはるか遠くに見えていた。

 静かな寝息がTシャツの肩をうっすらと湿らせ、やわらかな髪が時折私の耳をくすぐっていた。

 夏の陽は大きく西に傾き、ゆっくりと流れていく建物をオレンジ色に染めていた。

 短い夏の一日が終ろうとしていた。

 「さとこっていうの・・・」私の肩に身を寄せたままそう小さく呟いた。

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哀 蛾(2)

 「ジューンブライドっていい響きねぇ。」女の瞳の奥にほのかな酔いがのぞいていた。

 「六月の花嫁ってほうがよかないか?言葉の響きとしてはさぁ・・・」

 そんな会話がふっと浮かんだ。

 それが彼女と交わした初めての会話だった。

 それは客が一ダースも入れば窮屈に感じるほの暗いスナックでのことだった。

 どうしてそんな話題になったのかは思い出せないが、ふたつの異なった語感が妙に気に入っていたことだけははっきりと覚えている。

 そして季節が六月だったことも・・・Kiss04

 「わたし教養ないから横文字にあこがれがあるみたい。」

 「あこがれかぁ・・・」私はじっと虚空をみつめている女の表情にふと寂しさを見つけた。

 彼女はそんな私の視線から逃れるように席を立った。

 「わたしもビールいただくわね。」とカウンター越しにママにウインクをして見せた。

 紫煙に映るなだらかな肩から細い腰にかけてのやわらかな線がきれいだった。

 「そんな目して、エッちゃん口説かないでよ。」ママの陽気な目が私をにらんでいた。

 そう言われて、彼女は驚いたようにふり向いた。が、その瞳に不安の色はなかった。

 二時間ほどたわいのない話をして、その夜は店を出た。

 アカシヤの香りが澄んだ夜空を包み込み、星が爽やかにまたたいていた。

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哀 蛾(1)

 澄みわたる五月の空に、芽吹きはじめた草木の香りがやわらかな風に舞い、閉ざされた季節から解き放れたものたちの笑顔が春の陽にまぶしい。

 私は色のくすんだ冬着のまま、陽だまりの中に立ち尽していた。

 凍てつく風雪の中で、時間が長い長いトンネルのように続く北国では、誰もが春の訪れを願っているというのに・・・Tetsugakuwins

 道行くものたちの色が淡くなっていっても、私はたぶん冬着のままだろう。

 気が遠くなるほど長かった季節はすでに去ったはずなのに・・・

 華やかなキャンバスからこぼれおちそうになっている色彩さえ、半透明に凍りついた窓ごしに眺めている背中を、薫風が哀れむように吹き過ぎる。

 哀しみをおびた女の視線が私の意識の奥底にまつわりついてくる。

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愛しています

 "愛してる"って

 何度呟いたかわからない

 言葉に出せなくて

 呟きだけで終わってしまう

 "抱きしめて"って

 何度想ったかわからない

 言葉に出せなくて

 愛すること

 こんなにも人を愛したのは

 初めて・・・・・

 こんなにも胸が熱くなるほど

 愛したのはあなただけ
 
 もう他の誰も愛せない

 「愛しています」

 あなた一人を・・・・・・

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